東浩紀『一般意志2.0』(0)

とりあえず一度ざーっと読んだだけだから拾えていない箇所が山ほどあるのは重々承知の上で、すげー曲解かもしれない「まじお前らの熟議とかドヤ発言とかその辺全部見られてっから自重でよろしく」って話には100%同意です。具体性が後半どんどん薄まるとか結局ニコ生マンセーなんじゃねとかやっぱ最後のノージックの話はいらねーんじゃねーかとかあるにはあるが、「『限定された空間での熟議』を公開することで得られる透明性」なんて論点には無論とどまらないわけで、「公共空間」と熟議の拮抗にこそそれはある。個人の履歴とパーソナリティが「私的」関係によって共有されうる閉鎖的熟議が、インターネット上に「公開」されることで、オーディエンスとパネラーの垣根が(便宜的に)取り払われた時に、あずまん自身が本文で記しているような席の交換は生じないかもしれないが、少なくとも現在のテレビ番組のようなヒエラルキーの絶対性にはメスが入ることとは思う。基本的にドヤってのは相手が自分より(限定的な意味でも)馬鹿だと思ってる時にしか発動され得ないものだから、それに対する牽制の意味で「民意」が取り扱われるのは、「夢」に対する反動かもしれないが、最も現実的なんじゃないかとは思う。

また、年末から『存在論的、郵便的』、『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』を読み返して、あずまんにとっての陥没点がラカンではなくフロイトであるという点についてもかなり謎だとは思っている。郵便本において、ラカン象徴界-現実界の齟齬は単一構造内における欠落として示されているが、フロイトの「不気味なもの」は『サイバースペース』において主体の複数性を宙吊りにするまさに「決定不可能性」の要因として取り扱われている。『一般意志』において導入されたフロイトが熟議とデータベースの中間に置かれ、両者のヒエラルキーを無化するものであるとしたら、その運動自体が結果的に「公共」に開かれる、という議論は、まあ「夢」だと言われればもちろんそうなのだけれど、例えばそれを実現可能な規模がどれぐらいなのか、一読ではあまり掴めなかった。

つったってですね、それこそフロイトの無意識とか高校数学の虚数aとか濱瀬元彦の下方倍音率とか、そういうものでしかなかった(はずの)ルソーの一般意志がこうまで具現化されるってのはやっぱあずまんすげーって感じだし、単純に皮膚感覚として入ってくる。この点はすごく重要だと思っていて、なぜならそれこそが開かれた熟議の可能性を……っつーのはあれなんで、また次回!