ホイットニー・ニューストンが死んだ

ホイットニー・ヒューストンが死んだ。彼女以上の歌手を僕は知らない。と言えば部分的にであっても嘘にはなるだろうけれど、「ホイットニー・ヒューストンが死んだ」というニュースが「マイケル・ジャクソンが死んだ」というニュースのヴァリューの辛うじて1…

アンジェロプーロスが死んだ

アンジェロプーロスが死んだ。自作の撮影中、車に轢かれて死んだアンジェロプーロスは、自らの身体――果たしてそんなものが存在するのか甚だ疑わしいが――をあまりにも非アンジェロプーロス的「現実」に曝すことで、結果的にその生をあまりにもアンジェロプー…

東浩紀『一般意志2.0』(0)

とりあえず一度ざーっと読んだだけだから拾えていない箇所が山ほどあるのは重々承知の上で、すげー曲解かもしれない「まじお前らの熟議とかドヤ発言とかその辺全部見られてっから自重でよろしく」って話には100%同意です。具体性が後半どんどん薄まるとか結…

すいません

今年を振り返るもクソもないんで、今歯磨きしてるんですけど歯ブラシ齧りながらホワイト&ホワイトが口から垂れてこないぐらいのあれでざーっと書きますけど。だから今年どうこうってあれでもないんだけど、とにかく文学とか美学とか、本当に震災どうこうっ…

fragment 439

前回の続き。デジタル・ネイティヴ(あるいはそうじゃなくても)が過去のアーカイヴをインターネットから掘るにしても、2ちゃんねる→ブログ→mixi→Twitter、あるいはその時期バズってる話題でそのアクセスが規定されるだろうっつー話。んでそういう細かい差異…

fragment 438

25歳になった(厳密には2日前に、だが)。何年か前から数え年の制度を導入したので誕生日に特に感慨もないし、意欲的な若者にありがちな、先人と自分とを比較して「若いうちに何か事を成さねばならぬ」という意識も薄い人間なので四半世紀ほぼたらたらやって…

「戦争-映画」論序説、あるいは『最前線物語』について

戦争映画が実際の戦争に「似る」ことと、ある個人が戦争の「記憶」を戦争映画に投影することとの距離について考えるならば、それは戦争ではなく映画を巡ったものになる。というよりも、何かが何かに「似る」という現象自体、「記憶」に補完されたものである…

アップルの到来、あるいはSATURNの夜の憂鬱

メインマシンをiMacにした。前の得体の知れぬXPは吐血に吐血を繰り返す虚弱体質で、何せCDの読み込みすらできなかったので、そいつに比べてこのMacが。という言い方すら許されぬ快適さであり、そこには人類がモノを習得する歴史を128倍速で再生するかのパラ…

甘い記憶

生来の健忘症がいよいよ激しさを増してきたのは確か昨年の暮れ頃からか、ここ1年――いや2年――4年――7年のことはほとんど記憶にない。あったとしてそれはカットアップ&スクラップされた断片の集積としてであって、僕としてはその前で腕組みしながらうーんと周…

ソーシャル化するブログばれ

●ブログというのは誰に読まれているか解りません。 「その通りです」 ●はてなキーワードで辿ればそりゃ一発でしょう。 「自分の授業に出てる学生だったらそりゃねえ」 ●泳がされてたし。 「同じ授業の女の子も読んでたって。つーか言っときますけど、これ別…

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第十一回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第五章 脱物質主義の消費文化(2)1)エコ消費 ビニール袋からエコバッグへ エコ商品の流通は近代的消費における付加価値化へ戻る 2)電子書籍 「紙でもらうゲラが…

『アンストッパブル』(トニー・スコット、2010)

作業員の慢心によるミスから動き出した無人の貨物車両は慣性によってその速度を上げ、自らが発する力のみを頼りに毎時60マイルで走り続ける。その身を閃光に曝し、焦がれることで存在を現すには、いささか鈍重な身体を携えてはいるが、列車が列車自身の力の…

鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第十回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第五章 脱物質主義の消費文化(1)1)物質主義 産業革命、工業化による大量生産技術が商品あたりのコストを下げ、大衆の「モノ」の消費が実現 1960年代後半 第二次…

fragment 4

NHK『爆笑問題のニッポンの教養』、上野千鶴子の回は全く面白くなかった。こうした期待は(つーかそもそも「民放の上野千鶴子」に何を期待していたのかもよく解らんが)往々にして裏切られるのが常ではあるが(朝生の「若者不幸論」など)、上野千鶴子と爆笑…

鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第八回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第四章 消費記号論の彼方(1)1)差異化による需要の創出 構造主義以降の「関係」による意味の決定 差別化による需要の自己創出(見田宗介『現代社会の理論』、199…

fragment 3

AKB48の、たった今テレビで流れていた曲(新曲ではないです)、恐らく卒業ソングだと思うんですけれども、その中で「輝いていた青春時代を胸に、これからも力強く生きていく」とか何とか、そういう歌詞があって。要するに「青春時代」ってのは一体何なのかと…

鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第七回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第三章 グローバル化と消費文化(2)1)グローバル化が生んだ「非アメリカ的消費」 ヨガ カウンターカルチャー、ヒッピー思想の後、フィットネスとしての需要(「…

鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第六回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第三章 グローバル化と消費文化(1)1)画一化 90年代においてグローバル化=マクドナルド化だった。 1999、WTOシアトル会議での反対運動。 同年、ジョゼ・ボヴェ…

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第五回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第二章 消費文化とマクドナルド化(2)1)非マクドナルド的消費 「スタバを出し抜いた『おうちカフェ』」(『Newsweek 日本版』 2010年9月25日 18時55分 http://ww…

K-POPと「母」の喪失

「少女時代について何も知りませんよ」 ●でも好きなんでしょ。 「うん」 ●「ここを一回整理しとかないと日本の音楽は次に進めない」とか言ってたじゃん。 「言ったかねえ……」 ●どこが好きなんですか? 「まあどこが好きかって話はさあ……。『どこが好きか問題…

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第四回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第二章 消費文化とマクドナルド化(1)1)ジョージ・リッツァ『マクドナルド化する社会』(正岡寛司訳、2007、早稲田大学出版会)。 近代産業における四要素(効率…

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第三回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第一章 ポストモダン消費論の脱構築(2)ディスカッション――ポストモダン消費について 日常生活におけるさまざまなシミュラークル(付加価値商品)。 外国車、サッ…

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第二回

間々田孝夫 『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房) 第一章 ポストモダン消費論の脱構築(1)ポストモダン論の前提 ロイ・リキテンスタイン、アンディ・ウォーホルのポップ・アート、デュシャンのレディ・メイド参照…

fragment 2

日本の銀幕に登場した頃のマリリン・モンローは白痴美と評された。今でも覚えているが、銀座のどこかの映画館に、滝の上に寝そべってひじまくらをし、真紅なべにをさした口唇を半びらきにし、うっとりと媚を売っている彼女のとてつもなく大きな看板がかかげ…

『非常線の女』(小津安二郎、1933)

田中絹代は劇中、三度拳銃を手にする。その銃口が火を噴くのは無論三度目においてであるが、田中絹代がタイプを打ち、また岡譲二のオフィスにおいて帽子が落ちるのは二度である。『非常線の女』における「三度目の偶然」が我々にとっての異様な事態を招くこ…

『スクリーマデリカ』雑感(1)

『スクリーマデリカ』の再演が一体どれほどの人に喜ばれているのか解らない。おっさんだけじゃないのか、その中でも『スクリーマデリカ』のリアリティを真に受け入れることができる人間が果たして何人いるのか。「ロック史に残る名盤」という扱いがこれほど…

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第一回

1)「震災後」における流通、および大学生の就職活動 シラバスの「演習で学んだことを将来、社会人になってから活かしたいとか、具体的なビジネスのビジョンを持っているなど、強い意欲のある学生を歓迎する」という言葉が過剰とも言えない状況が、震災によ…

fragment 1

阿部和重の『シンセミア』を読んでいた。取り敢えずの振る舞いとして明確な日付を記せば、2007年(平成19年)6月18日(月曜日)から19日(火曜日)にかけてこの書物を、彼は一度目に読了している。さらに記憶を辿ると、18日午前11時10分から12時40分にかけて…

途中から始まる人生

最初のブログを開設したのが2005年の3月だったことは覚えている。10代だった僕は、その頃、当時自分に付きまとっていた(と思っていた)様々な抑圧(のようなもの)から(取り敢えずは)とうとう解放されたような気持ちで、まるで昨日キャンパスに溢れていた…