「戦争-映画」論序説、あるいは『最前線物語』について

戦争映画が実際の戦争に「似る」ことと、ある個人が戦争の「記憶」を戦争映画に投影することとの距離について考えるならば、それは戦争ではなく映画を巡ったものになる。というよりも、何かが何かに「似る」という現象自体、「記憶」に補完されたものであるが故に、映画と戦争のあいだには茫漠とした地帯が広がるのみだと言えよう。

茫漠地帯は死体で埋め尽くされる。「戦争-映画」の死者が一瞬でスクリーンから消え去ろうと、ヒロイズムで包まれようと、彼らは映画の「記憶」に葬り去られる。死者は一方で、奇跡的に生き延びた兵士を不意に背後から襲うことでその存在を辛うじて主張する。殺人者は殺すが、また殺される。その身体に死者の痕跡を刻みながら生きたクリント・イーストウッドは、「戦争-映画」の「記憶」に撃たれたのである。

一方で、「戦争-映画」における死者の弔いを宙吊りにし、ニュー・シネマの裏面で「遅延」を描いたジョージ・A・ロメロが、その『サバイバル・オブ・ザ・デッド』で少女をまるでジョン・フォードのように描いてみせたことが、「遅延」の解放=死者の葬送である――というのは早計か。

最前線物語』における馬がぎりぎり『サバイバル・オブ・ザ・デッド』を凌ぐとして、戦争と映画の最良の邂逅がここにあると言い切ってしまうことの何割が興奮による過剰であろう。生者と死者の物理的距離が、散弾銃とナイフによって変動し続けるこの映画の、茫漠地帯の不定こそが、わたしたちの「記憶」を揺るがす。