fragment 438

25歳になった(厳密には2日前に、だが)。何年か前から数え年の制度を導入したので誕生日に特に感慨もないし、意欲的な若者にありがちな、先人と自分とを比較して「若いうちに何か事を成さねばならぬ」という意識も薄い人間なので四半世紀ほぼたらたらやっていたのだが、それでもタモリのデビューまであと5年というところまでは来てしまった。まあ昔からほぼ年上の人としか交遊してこなかったので単に老成しているとかそういうことかもしれないのだけれど、その老成は自身の年齢的な「若さ」ゆえに成立するものであって、例えば僕が80年代の話をしても10代の少女は単におっさんが昔話をしているのと大差なく受け取ってしまうだろう。もちろんそこには受容するデータベースとそれを可能とするメディアの世代的断絶が存在する訳だけれど、微細な「世代」分化を嗅ぎ分けられない人間にとってそれは単なる過去の集積でしかない。ほとんどの現代人が平安と鎌倉の古文を読み分けられないように。

「10歳」という年齢差の内にはいくつの「世代」が含まれるのか。3年下れば一世代下なのか。インターネットによるアーカイヴ化の進行がそういった「世代」感覚を無効化させるというのはよくよく聞く話であるが、一方で個人が持つ人生と時間は絶対的なものである。僕はインターネットを含む様々なメディアで「歴史」を学んだけれどそれは個人の内部以外には醸造されない「歴史」であって、10歳上の友人に彼らの知らないチェッカーズ電気グルーヴの話はできるが、そこに現れるのは「世代」の消失ではなく、かつてとは全く別の「世代」の顕現である。それは40年代のジャズを聴くことが若者の表現であった80年代のイギリスで起こったことと同じであると同時にしかし、そこには「40年代のジャズを聴くことが若者である」という別の水準での「世代」の決定権が存在し、その堆積こそが「若さ」をどんどん遠ざける……。

過去のアーカイヴからメディアによって恣意的に選択された「歴史」の堆積が、やはりそのメディア自体の歴史の推移によって断絶されるとすれば、その堆積こそが新たな「歴史」であろうか(ふむ。続く)。