アンジェロプーロスが死んだ

アンジェロプーロスが死んだ。自作の撮影中、車に轢かれて死んだアンジェロプーロスは、自らの身体――果たしてそんなものが存在するのか甚だ疑わしいが――をあまりにも非アンジェロプーロス的「現実」に曝すことで、結果的にその生をあまりにもアンジェロプーロス的に宙吊りしたと、ひとまずはそう認めざるを得ない。

嘘だと思うなら、今すぐ『旅芸人の記録』を、『シテール島への船出』を、『霧の中の風景』を、『永遠と一日』を、『エレニの旅』を観ればよい。アンジェロプーロスはまったく、生者と死者の臨界点を、映画それ自身の臨界点としてあるがままにフィルムへ収めるいとなみにその身を捧げた殉教者――と呼ぶにはあまりにも素朴な、一市民である。アンジェロプーロスにとって、言葉本来の意味における浪費そのものであるセットと長回しは、呼吸や排泄や性行為と同列のものでしかなかった。映画における時間は、作家の主観によるものでも、誰が何を要請したわけでもない。人が一生の長さを決定できないのと同じ意味で、それはある瞬間に立ち上がるショットの連鎖である。

僕が大学の映画サークルに入った当初、話題はアンジェロプーロス一色であった。先輩は皆、アンジェロプーロスこそが映画だ、映画とはアンジェロプーロスだと口走っていた。「映画は映画館で観られなければならない」という言葉にどれだけ抗ったとしても、丁度5年前、極寒の1月に暗闇の中観た『霧の中の風景』以上の映画体験を貧困にも持ちえない者が作家の死について語り得る言葉が幾ばくか、僕には想像もつかない。嘘だと思うなら同じ体験をしてみればいい。その機会が与えられるなら、作家の死はとるにたりないことではないか。