fragment 439

前回の続き。デジタル・ネイティヴ(あるいはそうじゃなくても)が過去のアーカイヴをインターネットから掘るにしても、2ちゃんねる→ブログ→mixiTwitter、あるいはその時期バズってる話題でそのアクセスが規定されるだろうっつー話。んでそういう細かい差異は後に遡行すれば全く無効化されるだろうっつー。たまたま今日読んでたんだけど『存在論的、郵便的』の序盤で言われてるデリダフッサール、あるいはリオタールの対比ってのはつまりそういうことで、可能性の束が現在へ収束されていくんじゃなく、「可能性の束」という存在自体が現在時制のエクリチュールの移動=散種によって「捏造」されたものである、って話とちょうど対になるんじゃないかとも思っていて、つまりこれは歴史を実際に経験した者と、エクリチュールとしての「歴史」によって知覚される言語学を前提とした者との思考の対比であって、あずまんの本は一章しか読んでなくて二章以降はほとんど忘れたというか理解も多分できていないのだけど、歴史を実際に経験した「私」自身が確定記述に還元されえない単独性を有する者であるとするならば、しかしその単独性とはそのままエクリチュールのことを指し、したがって「私」は過去および未来、未来完了時制における種々のコンテクストを移動するほかない――。

全然この間の続きじゃない。そもそもは世代の話をしてたはずなんだけどはっきり言って自分はある時期以降大して年齢差みたいなものを意識しなくなった気がしていて、いや実際は相対した際の立ち振る舞いとか敬語をどれぐらい含有させるかとか意識することは山ほどあるんだけど、それは単に年上の馬鹿と年下の鋭敏さを感じることが増えたからで、あとは前述の通り「記憶」の共有についても実年齢は無効化されたと思っているから(いやそれも半分無いぐらいね)、それとは別に確実に存在する個人の歴史観ってものも併せて考えればもう何が何でどうなのよ、って話で。それよりも自分が、個人の(単独性としての)「記憶」の話ばっかりしていることに気付いた驚きの方がでかくて、俺は一体何から逃れようとしているんだろう、何を取り戻したいんだろうってことを考えるよね、どっちかって言えば。テレビつけたらやっぱりAKB48が出ていて、例えばどういうナイーヴさがこれに合致するのかってふと頭をよぎる。