鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第三回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第一章 ポストモダン消費論の脱構築(2)

ディスカッション――ポストモダン消費について

  • 日常生活におけるさまざまなシミュラークル(付加価値商品)。
    • 外国車、サッカーの応援ユニフォーム、いろはす等。
  • ポストモダン社会における「構造」と「差異」。
  • ものの「価値」と「付加価値」。
    • ある商品の原価20%、人件費50%、利益30%(純利益、投資資金、設備投資含む)の内、付加価値でないのは原価のみ。

さまざまな付加価値商品について、それらと実体としてのものとの差異(イトーヨーカドーのジャージとナイキのジャージ)。ちょっとあんまりあれなんで、以下殴り書いて提出したレポート(1261字)。


 今わたしが身に着けているもののほとんどは、ポストモダン消費的に選択された商品である。ビッグジョンのGジャン、オーシバルのカットソー、レッドウィングのブーツ、ディーゼルのウォッチ。ボトムはユニクロだが、ユニクロは許容できるのであって、ブラックジーンズをイズミヤで買うことは絶対にない。ではカットソーはユニクロの同じボーダーでいいのかといえば、まあ悪くはないがあまり気が進まないし、ジャケットはユニクロでは絶対に嫌だから譲歩してGAPかコムサで買う。といった、延々と書き連ねるとほぼ無意味としか思えなくなってくるような、しかし自分の中に確固たるものとして存在する選択の基準こそが、脱合理主義、脱構造化、シミュラークルの優越を反映したものであると考えられる。
 まず、ポストモダン消費における付加価値について考えてみる。ビッグジョン、オーシバル、レッドウィング、ディーゼルの付加価値はそのままブランドの力によるものであるが、「ブランドものの魅力」などというものがどれほど脱合理的かは言うまでもない。安価で高品質な商品は掃いて捨てるほどあるのだし、全部イズミヤで揃えるのが金銭面における合理化の徹底である。ブランド力というものは、ボードリヤール的な他者の介在が徹底され、個人が「大衆の欲望」を欲望することで確立されたといえるが、しかしポストモダニティの進展に従った多様化の中で、個人にとってのブランドの優劣というものも同時に存在してくる。前段でわたしが述べた無意味なブランドの選択基準はこれに当てはまると思う。ルイ・ヴィトンは好きだけどエルメスは好きじゃない、という「ブランド好き」は掃いて捨てるほどいるだろう。ポストモダン消費における脱合理化は、その非合理性ゆえに多様化し(無意味なものであればいくらでもつくることができる)、個人の欲望を微細に反映することに成功した。そして、こうした消費形態における欲望の多様化こそが脱構造的といえる。つまり、脱合理主義的な付加価値によって生まれた「ブランド力」は、大衆から求められるという意味での統一性とともに現れたが、他方、脱構造化のはたらきによって、そうした統一性(構造)が解体されていくプロセスが同時に起こっているのではないか。
 では、シミュラークルの優越についてはどうか。わたしはユニクロでボーダーのカットソーを目にして「オーシバルのパクリだ」と思う。しかし、ユニクロとオーシバルの間にそのような影響関係、あるいは階層の序列が、果たして存在するのだろうか(一方で「別にオーシバルはいいとは思わない。だったらユニクロでいい」という消費者もいるだろう)。ユニクロを「偽物」とし、オーシバルを「本物」とするこうした審美性は、確立されたブランドの優越と、多様化によるその解体が同時に発生しているといえるし、そもそも「真の本物」が存在しない(あるいはカットソーである限り、それらはすべて「本物」である)という点において、この世に存在するすべてのカットソーはシミュラークルだといえるのではないか。