鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第十一回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第五章 脱物質主義の消費文化(2)

1)エコ消費

  • ビニール袋からエコバッグへ
    • エコ商品の流通は近代的消費における付加価値化へ戻る

2)電子書籍

  • 「紙でもらうゲラがまじ邪魔、ムダ。データで送ってほしい」(鈴木)
  • 再販制度により、出版社の収益は発行から3か月後。自転車操業状態
  • 電子書籍化のメリット
    • オンライン販売による直接の収益確保
    • 製本費の削減
    • 版切れ、品切れの回避
  • 電子書籍化のデメリット
    • 著者の直販による出版社の淘汰(オーソリティの問題は残るが)
    • 組版、装丁の絶滅
    • マーケット未開拓(村上龍『歌うクジラ』の売り上げが「とても言えない」状態)

3)途上国の搾取

  • カカオ生産国のモノカルチャーの現状(カカオの消費をやめることが途上国を救うことにならない)
  • 途上国への産業振興(内需喚起)、農業の技術革新(「緑の革命」)
  • フェアトレードなど、先進国の消費スタイルの変化によって労働環境を規定する

4)家電の機能過剰

  • 新製品の発表によって「のみ」、消費者の購買欲求が生まれる
  • 家電機能のスマート化(OSのアップデートを長期間隔化、ソフトをアプリケーションでカスタマイズ)

5)脱物質主義におけるビジネスモデルの設計

  • 自然破壊、途上国搾取への単なる批判は効力を持たない。買う側、作る側の倫理以外に、ビジネスモデルを明確にする必要がある
  • エコ消費のブランド化
  • 付加価値性の脱物質化
    • 「モノ」の機能面における差異化

先進国に生きる私たちが、天然資源を犠牲にしてしか近代的消費を継続できないとすれば、そうした消費活動は、外在的環境の有限性によって規定されざるを得ない。また一方では、近代における環境問題はそれ自身の進行が招いたものであるとの認識から、近代化の徹底による環境危機の克服=エコロジーの合理化も主張されている。いずれにせよこの両者が示唆するのは、前期近代的な消費活動とは別の可能性、すなわち消費の削減を通じて豊かさを実現していくことで、新たな消費の概念を実現可能、そして持続可能なものとしていく考えである(福士正博「持続可能な消費――二つのバージョン(1)」、東京経大学会誌269号)。
日本ではほとんど混同されているスローライフロハスについて、私が最も強く感じる場は夏の野外フェスティヴァルである。例えばその代表的なものであるフジ・ロック・フェスティヴァルは、60年代にコクドが切り開いた苗場スキー場という場で、堂々と自然環境の保護を謳っている。会場内は厳格なゴミの分別やグリーン・エネルギーによる自家発電も行われているが、一方で多くの観客が自家用車で訪れ、終了後キャンプサイトから立ち去る際には寝袋やテントまでを含めたあらゆるゴミを、主催者側の黙認の下に放置する姿が散見される。また、「自然の中で限られたインフラの中暮らす」と言いながら、皆がゴアテックスやメレルのアウトドアグッズに高額を支払って臨む。私自身はこのフェスティヴァルに毎年参加しているが、「不便さによる豊かさ」の実現こそ最大限に体感するものの、そうした経験はあくまで近代的消費の内側に包摂されるものであり、持続可能性については大いに疑問である。毎日がフジ・ロックだったらそれは絶対に耐えられない。
「非日常」という言葉は原理として「日常」の存在を前提としており、マーケティング用語としてのロハスが仮にフジ・ロック的なものと同義であるとすれば、現在の市場においてそれが近代的消費を内側から食い破ることになるとは考えにくい。野外フェスティヴァル、ロハスは現在、紛れもない近代的産業の一部である。「消費の削減」とは、それが内側に胚胎される「近代」という物語の、外側において実現されねばならないが、それは「ポスト・モダン」であるのか、あるいは「後期近代」であるのか。