『スクリーマデリカ』雑感(1)

『スクリーマデリカ』の再演が一体どれほどの人に喜ばれているのか解らない。おっさんだけじゃないのか、その中でも『スクリーマデリカ』のリアリティを真に受け入れることができる人間が果たして何人いるのか。「ロック史に残る名盤」という扱いがこれほど窮屈なアルバムも他にない(そもそもセカンド・サマー・オブ・ラヴがこの国で理解されたことは一度もない。と言いつつも、『ロッキング・オン』のバックナンバーとか古本屋で眺めると、当時の熱狂が何となく反映されてはいるのかなーとか、後追い世代の摂理として感じることはあるけれど)。ロック好きの高校生が「名盤」として聴いてはまることが絶対にないという意味で、『スクリーマデリカ』はまったくの虚像として存在している。2003年のフジ・ロックでアンコールに“ローデッド”を演奏してドン引きされるプライマル・スクリームを、僕はこの目で見た。ロック史の文脈においては00年代初頭からのロックンロール・リヴァイヴァルとプライマル・スクリームの「ガレージ化」が同期する形で受け入れられたのかもしれないけれど、『エクスターミネーター』や『イーヴル・ヒート』とリバティーンズでは音像も引用元もまったく違う(カサビアンとすら違う)。当時荏開津広が書いていたように、プライマル・スクリームの音処理はライヴにおいてもレイヴ・カルチャー「以降」の、倦怠とチルアウトを経たものだ。プライマル・スクリームが『スクリーマデリカ』に“ハイヤー・ザン・ザ・サン”を二度収めた理由を考えてみればいい。自らの音楽にその「倦怠」までをも書き込んでしまわねばならないプライマル・スクリームが「ゼロ」年代と名指されたオプティミズムに駆逐されたとして、「ロックンロール」の語彙における矛盾と『スクリーマデリカ』への無理解が顕在化することは、何よりもプライマル・スクリームにとっての不幸と言えると思う。

以上を前提としてそれ以上に言えることがあるとすれば、『スクリーマデリカ』の音楽的強度はストーン・ローゼズの一枚目に勝る、とか、『ブラック・マシン・ミュージック』を読めばセカンド・サマー・オブ・ラヴの饗宴をロック・バンド中心で語ることは案外的外れではない、とか、そんなことだ。僕は高校生の頃『スクリーマデリカ』を聴いて、それを歴史上の事実のように読んだけれど、MTVで“ムーヴィン・オン・アップ”のビデオを初めて観た時には“悪魔を憐れむ歌”が平気で霞んだ。そういう事実は『スクリーマデリカ』についての半分でしかない。これは、いつだって僕たちにとっての陥没点であり、天啓であり続ける、音楽それ自体についての話である。