甘い記憶

生来の健忘症がいよいよ激しさを増してきたのは確か昨年の暮れ頃からか、ここ1年――いや2年――4年――7年のことはほとんど記憶にない。あったとしてそれはカットアップ&スクラップされた断片の集積としてであって、僕としてはその前で腕組みしながらうーんと周りをうろうろしてみる程度のことしかできず、例えば「季節だけがどんどん移り変わって」という比喩の意味すら解らない、日々は確かに過ごしているものの、昨日俺何食ったっけ。ていうかメシ食ったっけ。ていうかブログやってたっけ――と、ある瞬間その事実を突如思い出して、「気付けば何故か」という比喩だけは何とか持ち出し、頭をもたげればゴロンと転がる記憶のフラグメントを弄び適当にニヤけながら、取り敢えずこれを書いている。

だから6年半のことを思い出すも何も、それ以前にこの健忘を克服しないことには僕の中からは思い出も感傷も搾り出せないし、中学の時も高校の時もまじで「卒業」というものが何でこんなに有り難がられるのか一切解らなかった。中学はあれだけど、高校の卒業なんて6年ぶりにシャバに出られるとしか感じたことがないし、美化されることが前提になっているそんな記憶がいまだに生傷でしかない。っつーのがそもそもの問題なんじゃないか。とか何とかいえる気はするけれど、イニシエーションなき世界でまあこれからやってくわけなんだけど。これ何、現代美術っつーの?って感じのスクラップのから適当に剥がして2000倍の顕微鏡にかけると、およそこうしたことが書いてあった。

(卒業とか青春について書いたいくつか前の文章は、実は自分では結構気に入っているのですが、どうなんだろう。やっぱり自分のことに当てはめると全く実感がないんですよね。そんなことよりも自分のことに精一杯というか。まあ「それも込みで青春」とか言えますし、そんなこと言ったら何でも青春の一言で済ませられちゃうんですけど。そんなことばっかり言ってるわけですよね)

*「健忘」にかかわる最も大きな存在、『エル・スール』。『ミツバチのささやき』は、灯りとともに消えてしまう、映画そのものについての話だった。