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NHK爆笑問題のニッポンの教養』、上野千鶴子の回は全く面白くなかった。こうした期待は(つーかそもそも「民放の上野千鶴子」に何を期待していたのかもよく解らんが)往々にして裏切られるのが常ではあるが(朝生の「若者不幸論」など)、上野千鶴子爆笑問題の食い合わせは、基本的に養老猛司と速水健朗、いや、梅田望夫光浦靖子、んーーー、長島一茂と加藤夏希みたいなもんと考えてよかろう。

上野千鶴子が一茂だったら大変だがそういうわけではなく、要するに後半からぶち切れの太田光は上野の発言の上げ足取り→ふと気付いた矛盾点を突く(上野「生身の女性との密な交流が一番重要」太田「そういうジェンダーとか何とかが一番それを阻んでるじゃねえか!」)という、まあ前提を共有できていない議論に参加したことのある者(皆さん)であれば誰もがはいはい。となるあの展開なわけだが(ちなみにツイッター上での反応は、何と太田と上野双方の支持者が半々!と、まあ誰もがはいはい。となる――)、太田の発言が所謂「社会学への批判」のステレオタイプ(それはまた最も本質的な問いでもあるわけだが)をはみ出ないことは、冒頭の上野「男は男社会の内部での承認を求める」論(このことは近著でも再三述べられている)への忠実な賛同と相似をなすようでもある。

んで、これは結局人文科学と社会科学の対立なのではないか、とか大きく出てみたい気もするのだが、もっと単純に議論とケンカの差異という気がするのだ。遥洋子が東大で上野に習ったケンカ(番組の表題にも掲げられていた)というのは、やはり決められたルールの内側で履行されるものであり、ケンカというのは本質的に無頼であって、例えばその果てに人が死ぬようなもののことだと思うのだ。それは相手を殺めることと同時に自分が命を落とすことをも意味するのであって、太田光の議論のあり方は明らかに自死である(いつもは中立を保つ田中の議論への参入も、また)。上野は「議論に勝つ最善の方法は相手の論理の矛盾点を突くこと『のみ』」とかつて語っていたが、ケンカの論理(そもそもそんなものは存在しない)を携えた、相手への共感を全く持ち得ない太田の前に、例えば社会学の臨界点が露呈してしまった、というのでは、何よりもまずワタシの矛盾点を突かれてしまうわけで。

放送終了後、彼女はワタシに「女性であることのメリットとデメリットを受け入れて私は社会生活を送っている。女性としての快楽を100%享受している女の子たちにフェミニズムは必要なのか」と問うた。ワタシに聞かれても困るわけだが、「社会学役に立たないんじゃね?」批判の最もオーディナリーな声が最も有効であるという事実は、永遠に上野と太田の対立を量産し続ける。