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AKB48の、たった今テレビで流れていた曲(新曲ではないです)、恐らく卒業ソングだと思うんですけれども、その中で「輝いていた青春時代を胸に、これからも力強く生きていく」とか何とか、そういう歌詞があって。要するに「青春時代」ってのは一体何なのかという話になればそれは、まあ人生で一番恥ずかしい、本当に恥ずかしい時期のことを言うとは思うんですが、じゃあその「青春時代」の最中にいる人間が「いやー今俺は青春時代の真っ最中だね!」って思うのかといえば、思いますよね、きっと。うん。自分のことを考えてもそうだと思います。「青春が終わった」とははっきり感じたことはないけど、「今青春だねー」とか感じないってのは、それはそういうことじゃないかな。

卒業にあたって「輝いていた青春」っていう、それをもう過去のものとして扱っているってこと自体、まあすんごい恥ずかしい、青春以外何ものでもない感じだけど、やっぱり何事にも、適切なサイズなりレングスなりっていうのはあって、自分の事に関すれば、引き延ばされまくってるわけですから、何とも申し上げにくいことではあるんですが、そうですね、2年以内ぐらいがいい加減なんじゃないでしょうか。大学生活が4年ってのを基準にすると、楽しいのってそれぐらいじゃないかな。まあそれも、「大学つまんねー」って言ってる恥ずかしさの青春感も込みにして、って感じですけど。

いわゆるヤンキー性に起因することとして、自分がどれだけの修羅場をくぐってきたか、どれだけ豊富な人生の履歴を持っているか、ということがありますけど、重要なのはその経験自体より「過去の経験を今振り返ってる俺/ワタシ」っていう現在ですから、さっさと過去を堆積させて早めに上がって「昔ワルだった」っていう、それでどんどん結婚も早くなっちゃう、っていうことですよね。というか、歴史でも神話でも何でもそうですけど、過去ってのはいくらでも捏造できるわけですから、それが盛るどころのレベルじゃないぐらい肥大化するなんてのもまあ当たり前で、青春どうこうって話はこういう制度の影響を抜きにできないでしょう。自意識っていうものはそこから派生するものだと思います。

あとヤンキーの話ついでに言えば、村上春樹の小説にはヤンキー成分がまったく無いということを言った人がいて、ロハスとかスローフードとかいうもの(日本だと殆ど混同して使われてる二つですけど、本来まったく違います。スローフードはイタリア発の反ファシズム運動で、ロハスマーケティング用語です)はそれと同質の、異物を徹底的に排除することで成り立つものです。まあそんなこと言ったら殆どの文化がそうなんですけど、ヤンキー性を持たない日本人というのは存在しない。私だって持ってます。内部と外部は、どこで線を引くのかの違いだけで、システム論的には不可避に発生するものですけど、それの極端な形だと思いますね。「敵」が見えないにもかかわらず、システムによってそれがあたかも実体として存在するかのようになる、或いは本来そうでないものを「敵」の環境へ押し込む。結局「青春」っていうのも、そういった再帰性を帯びるものだと思うんです。お笑い種とも言えますけど。