鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第八回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第四章 消費記号論の彼方(1)

1)差異化による需要の創出

2)消費者にとっての/企業にとっての差異化

  • 古典的地位表示モデル/ライフスタイルモデル/差別化消費モデル
  • 他者との差異=他者の視線(上野千鶴子『〈私〉探しゲーム――欲望的私民社会論』、1987、ちくま学芸文庫)⇒個人の内面的価値の徹底化
  • 他の商品との差異⇒「モノの普及」の終わり

3)大衆の終わり

  • 1983〜1984 電通博報堂「分衆」、「小衆」
    • ビッグヒットはもう生まれない、「少品種大量生産から多品種小生産へ」

4)ポストモダン消費論をめぐって

  • ポストモダン消費論への間々田の批判
    • 「モノ」の消費による差異化に対して、「モノ」によらない、精神的価値を有した文化的商品はそれに当たらない
  • 間々田に対する鈴木の批判
    • ポストモダン消費記号論はあくまでマーケティング術語であり、学問的見地からの批判は妥当ではないのではないか(少なくとも80年代においては「モノ」の消費が主流であった)
    • 「モノ」から独立した精神的価値の存在は果たして可能か(映画、音楽などは所有と非所有を分化できない)

fragment 3

AKB48の、たった今テレビで流れていた曲(新曲ではないです)、恐らく卒業ソングだと思うんですけれども、その中で「輝いていた青春時代を胸に、これからも力強く生きていく」とか何とか、そういう歌詞があって。要するに「青春時代」ってのは一体何なのかという話になればそれは、まあ人生で一番恥ずかしい、本当に恥ずかしい時期のことを言うとは思うんですが、じゃあその「青春時代」の最中にいる人間が「いやー今俺は青春時代の真っ最中だね!」って思うのかといえば、思いますよね、きっと。うん。自分のことを考えてもそうだと思います。「青春が終わった」とははっきり感じたことはないけど、「今青春だねー」とか感じないってのは、それはそういうことじゃないかな。

卒業にあたって「輝いていた青春」っていう、それをもう過去のものとして扱っているってこと自体、まあすんごい恥ずかしい、青春以外何ものでもない感じだけど、やっぱり何事にも、適切なサイズなりレングスなりっていうのはあって、自分の事に関すれば、引き延ばされまくってるわけですから、何とも申し上げにくいことではあるんですが、そうですね、2年以内ぐらいがいい加減なんじゃないでしょうか。大学生活が4年ってのを基準にすると、楽しいのってそれぐらいじゃないかな。まあそれも、「大学つまんねー」って言ってる恥ずかしさの青春感も込みにして、って感じですけど。

いわゆるヤンキー性に起因することとして、自分がどれだけの修羅場をくぐってきたか、どれだけ豊富な人生の履歴を持っているか、ということがありますけど、重要なのはその経験自体より「過去の経験を今振り返ってる俺/ワタシ」っていう現在ですから、さっさと過去を堆積させて早めに上がって「昔ワルだった」っていう、それでどんどん結婚も早くなっちゃう、っていうことですよね。というか、歴史でも神話でも何でもそうですけど、過去ってのはいくらでも捏造できるわけですから、それが盛るどころのレベルじゃないぐらい肥大化するなんてのもまあ当たり前で、青春どうこうって話はこういう制度の影響を抜きにできないでしょう。自意識っていうものはそこから派生するものだと思います。

あとヤンキーの話ついでに言えば、村上春樹の小説にはヤンキー成分がまったく無いということを言った人がいて、ロハスとかスローフードとかいうもの(日本だと殆ど混同して使われてる二つですけど、本来まったく違います。スローフードはイタリア発の反ファシズム運動で、ロハスマーケティング用語です)はそれと同質の、異物を徹底的に排除することで成り立つものです。まあそんなこと言ったら殆どの文化がそうなんですけど、ヤンキー性を持たない日本人というのは存在しない。私だって持ってます。内部と外部は、どこで線を引くのかの違いだけで、システム論的には不可避に発生するものですけど、それの極端な形だと思いますね。「敵」が見えないにもかかわらず、システムによってそれがあたかも実体として存在するかのようになる、或いは本来そうでないものを「敵」の環境へ押し込む。結局「青春」っていうのも、そういった再帰性を帯びるものだと思うんです。お笑い種とも言えますけど。

鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第七回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第三章 グローバル化と消費文化(2)

1)グローバル化が生んだ「非アメリカ的消費」

グローバル化による非アメリカ的消費の例として、ここでは日本におけるヒップホップの受容について述べたい。
ヒップホップはブロンクスブロック・パーティーから生まれたが、またそれは土着性と文化が切り結んだ関係のことをも指す。コミュニティ単位における抗争の延長から生まれたヒップホップは、自らが属するコミュニティに音楽が根差していることが前提とされる。そうしたヒップホップそのものの原理と、日本におけるヤンキーからチーマーへの変遷=コミュニティの再編が、日本のヒップホップ受容の下に共鳴していたと考えられる。
ヒップホップの受容についての技術論的理解とは、無論音楽におけるアメリカのヘゲモニー、ラジオ、テレビ、雑誌等のインフラ環境がまず第一に挙げられるが、ことヒップホップに関しては音楽自体のそうした出自が流通の構造に与している。日本のヒップホップはだから、最初に都市部で広がり、地方からの声が上がるのは(「札幌のTHA BLUE HERB」、「SHINGO☆西成」)、ヒップホップの文法が確立された90年代後半〜00年代以降である。
ヒップホップの受容はチーマーからヤンキーへ、都市から地方へとトポスを移動させたが、これは、リスナー(消費者)にとっての技術論的理解=人類史上初の「純黒人音楽」(白人をマーケットの対象として生まれたものではない)としての「アメリカのユースカルチャー」から、行為論的理解=自らの属するコミュニティに固有の言語の獲得、というプロセスに一致するのではないか。
グローバリゼーションの画一化/多様化の側面は、こうした変遷に対応している。KREVAにせよNORIKIYOにせよ、あるいはファンキーモンキーベイビーズにまでその範囲を広げたとしても、日本のヒップホップに今「中心」は存在しない。画一化と多様化が同時進行し引き裂かれた、奇妙に転倒した「豊かさ」として、今の日本のヒップホップはある。

2)消費者ニーズとしての行為論的側面


消費者ニーズをベースに文化を消費財としてとらえること。ハイブリッド化、脱文脈化による問題。後半はiPodから色々流す大会。

鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第六回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第三章 グローバル化と消費文化(1)

1)画一化

2)多様化

  • グローバリゼーションへの応答としての多様化。
  • グローバリゼーション=画一化の文脈の中で、個々のコンテンツが脱文脈化される(=行為論的理解)。
  • あらゆる消費者が多様性を享受できるわけではない。
    • 貧困層は金銭面からグローバルシステムに頼らざるを得ない(=技術的理解)。

K-POPの話は、「脱文脈化されたグローバル消費財」の例として日本のヒップホップ/R&Bを例示した際に話されたが、「ギャル演歌」的な話を聞きたかったような。次回持っていく。「脱文脈化=ハイブリッド化」として、チューハイとか地中海風カレーとか、メシの話ばっかだったのがちょっとなー。

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第五回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第二章 消費文化とマクドナルド化(2)

1)マクドナルド的消費

2)非サービス業におけるマクドナルド化

  • 医療
    • カルテの電子化など、体系としてのメソッドを保持。
    • 「医者が足りない」ゆえ、回転率を上げ多数の患者を診察
  • 教育(大学のマクドナルド化
    • 学生を「顧客」ととらえ、あらゆるニーズを満たそうという動き(シラバスによるカリキュラムの開示、飲食店・ATMなどの設備)
    • GPA上位者へのインセンティヴ(学生にとっては「報酬」、大学にとっては将来の卒業生に対する「投資」)

3)「無(nothing)」の拡大

  • 「非場所/非モノ/非ヒト/非サービス」の虚無を埋めるため、「人間らしさ」の回復に向かうのではなく、「体験」としての華やかさ(=ディズニー化)へと向かう

今日は割と喋った。話がダラダラして長いのを直したいぜ。

大学教育とマクドナルド化の関連は、増加を続ける大学の校数から考えられる。1985年には全国で400校程度であったものが、2009年には約800まで増加しており、またこの間、19~22歳の大学進学率は2倍近くになっている。大学の増加と進学率上昇は、高等教育が提供される機会の拡大ととらえられる一方、学生の細分化により教育のあり方が散逸するといった向きも見られる。また、大学進学率は上昇しながらも、少子化により実際の進学者の数には変動がないため、つまりは増えすぎた大学が以前と変わらないサイズのパイを取り合う図式が現在みられている。合理化としてのマクドナルド化は、大学教育の内実を可視化させる方向へ向かう。学期開始以前におけるシラバスへのカリキュラムの開示、学生による授業評価などといった取り組みは、マクドナルドにおけるメニューの紹介とカスタマーセンターに相当すると思われる。また、大学内の設備においても、有名飲食店の出店やiPadの配布のような、学生を「顧客」ととらえた試みが広くみられる。「実学」への志向が特に文系研究室の予算を圧迫している話も知り合いの教授から漏れ聞くが、「消費者(=学生)」が何を求め、何を望んでいるか、そうした需要の合理化が、現在の大学教育には顕著に表れている。

大学生を対象とした企業の採用活動は、合理性の下に集約されたプロセスに沿ってそほとんどがなされる。「自己PR」、「学生時代に取り組んだこと」、「自分の長所・短所」。ほとんどの業務にはある程度の専門性が求められるが(もっとも、その専門性を築く入社前・後の研修も「マクドナルド化」してはいるのだが)、そうした企業ごとの差異は選考過程においてほぼ排除され、ひたすら「これまでの自分」について尋ね「自己分析」を強いられる。学生はそうした採用活動に「受け身」として取り組むが、何十枚ものエントリーシート、何十回もの面接の中で幾度となく繰り返される同じ質問に、自分が「無」としての交換可能な存在であることを痛感せざるを得ないのは事実である。

K-POPと「母」の喪失

「少女時代について何も知りませんよ」
●でも好きなんでしょ。
「うん」
●「ここを一回整理しとかないと日本の音楽は次に進めない」とか言ってたじゃん。
「言ったかねえ……」
●どこが好きなんですか?
「まあどこが好きかって話はさあ……。『どこが好きか問題』って本当難しいよ。俺がフィッシュマンズが何故好きかって言っても、言語のレベルでは『じゃあ何でbonobosじゃ駄目なの?』ってなる奴とか……」
●そんなアホ放っときゃいいじゃん。
「つってもさあ……」
●少女時代の話ですよ。
K-POPじゃなくて?」
K-POPはどうですか?
「全然知らない……。テレビでしか見ないからさー、KARAと少女時代しか知らないですよ。4 Minutesはアニメのすげーダサい曲があって、別にアニメがどうこうじゃないけど、他には良い曲あるよ絶対」
●KARAの露出が凄いね。少女時代が「GEE」出してからの間にアルバムもDVDもドラマもやってるよ、日本で。少女時代が韓国では反日の姿勢取ってる、とかいうのも関係あるのかなとか思ったりするんだけど。
「日本だとKARAの方が人気ない? 実感ベースでもそうだし、劇団ひとりケンコバも土田もテレビでKARAの話してるよ。プロモーションの問題と、反日はあんま解んないけど……。でもKARAの曲はJ-POPだよ。一番新しい、TBCのCMの曲(“ジェットコースターラブ”)なんか、完全に日本のマーケットに収まる形態になってる。テレビでしか聴いてなくて申し訳ないけど」
●聴きましょうよ。
(“ジェットコースターラブ”を聴く)
「ほーら。しかも90s」
YouTubeでしか聴いてなくて申し訳ないけど。
「最近ビブラストーン聴いてて思ったんだけど、日本におけるファンクの受容ってタワー・オブ・パワー的というか、跳ねる感じがあんまりない。米米クラブじゃがたらも結構そうなんだよ。近田春夫オルタナティヴの方面からヒップホップに接近するとそうなって、スチャダラパーのラップの平板さをそれと併せて考えれば、その裏面として、実は最初に日本でファンクをやったのはZEEBRAなんじゃないか、って話になってくる」
●なってくる、て。
「“ジェットコースターラブ”のバックのホーンも、これは米米CLUBだよ。まあEW&Fでもいいんだけど、要するに歌メロに奉仕する形式で、JB的なコードが停滞するファンクってものとは根本的に別物だ。リズムがイニシアチヴを握って腰にくるようなものではないんだな。そういう意味で極めて日本的、日本仕様に作られている」
●それ以前の“ミスター”とか“JUMPIN’”は違ったと思いますけどね。
「だからここに来てプロモーションが変わったんだろう。プロモーションってのは何も宣伝の打ち方だけのことじゃない。外来種として、ではなくJ-POPの内側に生態系を見出そうとしている……。でもそれはK-POP全体がそうあろうとしているのかもしれないけど、ひょっとしたら。恵比寿ガーデンシネマの跡地はK-POP専用の劇場になるし、この間なんてほぼジャニーズJr.と寸分も狂わないような10代の男の子のグループがデビューしてた。そういう『エイリアン性』を消臭しようとしてるような流れを何となく感じる」
●で、少女時代はそういうのと比べてどうなのよ。
「いきなり正反対のこと言うけど、少女時代だけは何ともぶれないわけよ。今回の“MR. TAXI”は日本オリジナルの曲なんだけど、“ジェットコースターラブ”とは何から何まで違うわけね。あくまでJ-POPの外側に位置していると言うか。ソングライティングが歌メロのためになっていない。トラックが自律してリズムが立ってるから、菊地成孔的に言えば『フォーク』の入る余地が無いんだよね。大体、Aメロ→Bメロ→サビ、って構造自体が日本の歌謡曲/J-POPに特有なものでしょう」
●結局そこだと思うんですよ。要するに参照点がUSってことでしょ? あんまりグローバリゼーションの話まで広げるのもどうかと思うんだけど、韓国国内の市場がすごく小さいから、必然的に外を目指さないといけない。以前までは(或いは今でも)「日本のJ-POPがアジアで人気だ」って話が結構あったけど、実際アジアからやってくるポップスにまるでJ-POPの影響が無い。
「少女時代も、ちょっと遡ったら07年ぐらいまではモロにJ-POPなんですよ。それがある時期に突然変態した。アジアにおける日本のヘゲモニーが何たら、みたいな話もあるにはあると思うけど、でも日本には安室奈美恵がいた。まあ倖田來未でもいいんだけど。エイベックス的な、90年代小室哲哉によって「レイヴ(笑)」とか「ジャングル(笑)」とか「R&B(笑)」とか言われてたものが一度、宇多田ヒカルの登場によって破壊され尽くしてしまった後で、小室から離れ、チャートに距離を置きながらブラック・ミュージックともう一度向き合い続けた安室が、いつの間にかマジのファンクを身につけて我々の目の前に現れたのがちょうどこの頃だ。04年の“WANT ME, WANT ME”は、テンション高過ぎのティンバみたいな曲が絶妙に古い気がして微妙だったんだが(デスチャの“Lose My Breath”もこの年)、『PLAY』(07)においては後のUS R&Bの主流たるエレクトロまで実は先んじていた。日本の、少なくともブラック・ミュージックにおいてこういった音楽はかつて無かった。要するに『フォーク』が無いんだ」
●かつて日本のブラック・ミュージックには、久保田利伸鈴木雅之がいた。前者はフォークを排除し、後者はフォークを胚胎した。でも久保田利伸も、実際日本で売れた曲には歌メロ優先の形式があった。
「うん。まあ“LA LA LA LOVE SONG”は微妙だけど、あれはドラマだから」
●要するに少女時代と安室奈美恵の変化に同時代性があったってことですね。
「そう。で、フォークを排除した安室に対して、フォークを胚胎したEXILEがいる。ただまあ、どう考えてもやっぱり安室奈美恵という存在は日本において特殊で、K-POPというものとの比較が成り立つかは正直よく解らないんだけど」
●……。というか、日本のその「フォーク」ってやつが特殊なんじゃないの?
「まあそれは成ちゃんの説だからね。すごい金言だと思うけど」
●日本のシーンがガラパゴス化してるとかさ、そういう結論だったらあまりにつまんねーよ。今すごい心配になってきたんだけど……。
「いや、ガラパゴス化してるかしてないかなんて話だったら、してるに決まってるじゃん! というか少女時代の話でしょ? 俺は“GEE”について喋りたくて。あれは要するにジャネット・ジャクソン“Doesn't Really Matter”のパクリと言うか翻案なわけだけど、“Doesn't Really Matter”は確か『bmr』で90年代のR&Bのベスト・トラックに選ばれていた(次点がアリーヤ“Try Again”とTLC“No Scrubs”。発表年から考えて、91〜00年のチャートかもしれない)。まあそんなこともどうでもいいぐらいの名曲なわけだけど、名曲からはパクリがじゃんじゃん作られじゃんじゃん売れ、“Got To Be Real”というそれはそれは無数にパクられた曲はその内の一つにドリカム“決戦は金曜日”をも含むのだが、まあそれぐらいパクられるポテンシャルがあると」
●“Got To Be Real”がパクられまくったのは黄金のコード進行じゃないの?
「……まあそれはいい。問題は“Doesn't Really Matter”が仮に今後パクられまくるとして、パクッた曲が200曲できるとして、“GEE”はその中で1位じゃないかと思うんだ。それぐらいいい曲だ。そしてこれが最大の問題なんだが、“GEE”は含有しているものが100% US R&Bというわけではない」
●「フォーク」ってこと?
「いや違う。これは本当、すごい単純なイメージの問題で申し訳ないんだが、あのー、昔、渡辺満里奈が台湾とか言ってた時あるでしょ? あとウォン・カーウァイの『恋する惑星』とか……」
●…………。
「要するにああいう感じ、日本における『アジア』の受容がエキゾチズム一辺倒だったような時代がかつてあって、何故かそれが“GEE”の中には見られる」
●……本当にイメージのだけの話だよそれ……。
「いやしかし! 同様にかつて、日本にも“Doesn't Really Matter”を翻案した曲があった。島谷ひとみの“PAPILLON”がそれだ! 日本は“PAPILLON”において安直なオリエンタリズムを表象したが、その10年後、紛うことなき『本物』たる少女時代が東アジアの他国から現れた……」
●つーかそれはそもそも“Doesn't really Matter”がそういう曲なんでしょ?
「…………」
●パクるとかパクられるとかさっきから言ってるけど、結局元の曲がそうなんじゃん。「フォーク」もクソもないっしょそれは。
「…………だからまあ、US的なものへの羞恥、でしょ? 結局日本はいまだにここから抜け出せていない……えー詳しくは江藤淳『成熟と喪失』(講談社文芸文庫)をお読みください!!」
●どんだけの名著にどんな逃げ方……。小林秀雄江藤淳に逃げるやり方、次回から無しな。それで終わる批評って大体つまんねーし。
「『母』の喪失って話だしね……。だからまあ、喪失してないんだよ、日本はまだ」
●もういいよ……。ところで何で急にこんな対談形式になってんの?
「いや、書くの楽かなって思ったらさ、全然楽じゃない!! 普通に書いた方がいいよ!!! 『文芸誌をナナメに読むブログ』さんの真似するんじゃなかった!!!」
●力量の差が出るな。
「本当に……。次回は『スクリーマデリカ』に本気出すよ!!!」

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第四回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第二章 消費文化とマクドナルド化(1)

1)ジョージ・リッツァ『マクドナルド化する社会』(正岡寛司訳、2007、早稲田大学出版会)。

  • 近代産業における四要素(効率性/計算可能性/予測可能性/制御)が、消費の分野においても見出される。
  • 一人あたりの客単価、回転率等を予測し、マニュアル化によって固定されたメニュー、接客により、消費が「マクドナルド化」。
  • こうして目指された合理化は、社会学においては、マックス・ウェーバープロテスタンティズムの倫理と資本主義の「精神」』に端を発する。
  • 合理化によって可能となった、利益の拡大、技術の革新、商品の普及。1920年代のヘンリー・フォード

2)ジョージ・リッツァの「新しい消費文化」

  • 非合理的装飾により、消費者を「幻滅」と「再魅惑」へといざなう。
    • アラン・ブライマン『ディスニー化する社会』(能登路雅子・森岡洋二訳、2008、明石書店)。
  • 「無(nothing)」。
    • 非場所/非モノ/非ヒト/非サービスによる、「固有性の喪失」
    • 合理化されたモダン消費的商品に、非合理的ポストモダン的付加価値を与えられた商品=シミュラークル


やっぱ今回もちょっとあれなんで、前回以上の書き殴りレポート。


 筆者は、マクドナルド化論の詳細、問題点について言及してきたが、ここでは、ジョージ・リッツァの述べる「マクドナルド化」が、リッツァの論じるほど大きく広がってはいないのではないか、消費においては非マクドナルド的要素も大いに含まれているのではないか、と問題を提起している。
 マクドナルド化の推進してきた原理には、合理性、画一性などの「魅力のなさ」が根底にあるものの、実際のマクドナルドのマーケティングにおいては、店内の装飾、商品のバラエティ豊富さなど、リッツァの述べてきたマクドナルド化からは大きく外れる要素を持っている。また、途上国の人々は「マクドナルドを食べる」ということ自体に、日常性から外れた楽しみを見出している。
 さらに、マクドナルド的チェーン店はマクドナルドのみに限らず、何より、飲食業においては個人経営の店舗をはじめ多彩な選択肢が消費者には与えられており、リッツァの批判はマクドナルド的消費のみにしか向けられていない、という指摘も可能である。
 このように、マクドナルド的消費と非マクドナルド的消費は、モダン消費とポストモダン消費がそうであったように、併存している。そして、リッツァ自身も、前述の指摘に対してはこう返答している。
 リッツァは、非合理的な「楽しみ」を伴ったポストモダン消費の存在と普及を認める一方、それでも、そうした中で拡大していくモダン消費=マクドナルド化に関心を向けている。リッツァは、ポストモダン化の進行と同時に、近代的合理性の進行も起こっていると主張するのである。
 こうした、原理的には対立しているマクドナルド的消費とポストモダン的消費、両者の関係については、リッツァは、最終的にはマクドナルド化が優越する、と述べる。
 リッツァは、マクドナルドとポストモダン両者の補完関係について、「幻滅と再魅惑」と表現している。画一的で退屈なマクドナルド的消費は消費者に「幻滅」を与えるが、そうした消費者に企業は、さまざまな非合理的な「楽しみ」=ポストモダン的要素を提示し、」「再魅惑」する。消費者を飽きさせないためには、この双方が不可欠となる。
 これは、マクドナルド的消費とポストモダン的消費、両者の拡大を意味することとなり、前述のリッツァの主張と矛盾することとなる。しかしリッツァは、マクドナルド化と対立される「ポストモダン」を、個性的で人間味あふれるサービス、「再魅惑」に用いられる「ポストモダン」を、サービスにおけるエンタテイメント性、といった形に区別することでこれを回避している。リッツァは、消費財それ自体および消費行為と、販売促進サービスのプロセスを別様のものとしてとらえているのである。つまり、消費財、消費行為はマクドナルド化されるが、サービスはポストモダン化を続ける、と。
 筆者自身はこうした主張には首をかしげ、消費財、消費行為における非マクドナルド的要素の存在を指摘する。筆者は、マクドナルド化ポストモダン化は、ある主張のもとで切り離せるものではなく、本質的に結びついている、と考えている。
 リッツァのマクドナルド化論は、マクドナルド化の進行を住宅や食品などサービスを伴った消費についてしか言及の幅を持たず、また、消費者にとっての選択肢として他に多く存在する非マクドナルド的要素を捨象してしまっている。こうしたリッツァの分析は、概して消費者の側の心理を見落としてしまっていると言える。消費者がマクドナルドを選ぶのは、合理的なサービスだけでなく、雰囲気やイメージをその利点としている、という事実について目が向けられていない。
 リッツァはポストモダン消費の背景におけるモダン消費の拡大を過大評価してしまっている。モダン消費とポストモダン消費は、このように分かちがたく結びついてあらわれるものである。