アップルの到来、あるいはSATURNの夜の憂鬱

メインマシンをiMacにした。前の得体の知れぬXPは吐血に吐血を繰り返す虚弱体質で、何せCDの読み込みすらできなかったので、そいつに比べてこのMacが。という言い方すら許されぬ快適さであり、そこには人類がモノを習得する歴史を128倍速で再生するかのパラダイムシフトが発生する。インターネットが便利だ便利だというのはつまりこういうことであるのか。今この日記もEvernoteで書いている。iPhone 4Sの機種変もかました。

無論このブログも今後は精力的な更新が予測される。YouTubeAmazonのリンクは考えたがとりあえずやめておく。何と言うか、調子に乗っている人間とは俺のことだろう。

James Blakeの低音は、「低音」が物理的に存在しうるものか、それとも人が「欠損」を知覚したものか、60分に渡って判断を迫ってくるものであり、その結論は、「PA卓に4人目のメンバーが座っているか。もしいたなら一体何をしているか」確認しようとしたが「人が多すぎてよく見えなかった」ので、未だ留保されたままである。砂原良徳レイ・ハラカミ"joy"を、石野卓球山下達郎"Ray Of Hope"を鳴らし、そして卓球が、卓球が。ものすごいテクノだった。2011年に卓球がものすごいテクノだったのである。どうしたんだ一体どうなってるんだ。きっちり5時に音が止むと、帰る人の流れの中に牧田が立ち尽くしていた。

甘い記憶

生来の健忘症がいよいよ激しさを増してきたのは確か昨年の暮れ頃からか、ここ1年――いや2年――4年――7年のことはほとんど記憶にない。あったとしてそれはカットアップ&スクラップされた断片の集積としてであって、僕としてはその前で腕組みしながらうーんと周りをうろうろしてみる程度のことしかできず、例えば「季節だけがどんどん移り変わって」という比喩の意味すら解らない、日々は確かに過ごしているものの、昨日俺何食ったっけ。ていうかメシ食ったっけ。ていうかブログやってたっけ――と、ある瞬間その事実を突如思い出して、「気付けば何故か」という比喩だけは何とか持ち出し、頭をもたげればゴロンと転がる記憶のフラグメントを弄び適当にニヤけながら、取り敢えずこれを書いている。

だから6年半のことを思い出すも何も、それ以前にこの健忘を克服しないことには僕の中からは思い出も感傷も搾り出せないし、中学の時も高校の時もまじで「卒業」というものが何でこんなに有り難がられるのか一切解らなかった。中学はあれだけど、高校の卒業なんて6年ぶりにシャバに出られるとしか感じたことがないし、美化されることが前提になっているそんな記憶がいまだに生傷でしかない。っつーのがそもそもの問題なんじゃないか。とか何とかいえる気はするけれど、イニシエーションなき世界でまあこれからやってくわけなんだけど。これ何、現代美術っつーの?って感じのスクラップのから適当に剥がして2000倍の顕微鏡にかけると、およそこうしたことが書いてあった。

(卒業とか青春について書いたいくつか前の文章は、実は自分では結構気に入っているのですが、どうなんだろう。やっぱり自分のことに当てはめると全く実感がないんですよね。そんなことよりも自分のことに精一杯というか。まあ「それも込みで青春」とか言えますし、そんなこと言ったら何でも青春の一言で済ませられちゃうんですけど。そんなことばっかり言ってるわけですよね)

*「健忘」にかかわる最も大きな存在、『エル・スール』。『ミツバチのささやき』は、灯りとともに消えてしまう、映画そのものについての話だった。

ソーシャル化するブログばれ

●ブログというのは誰に読まれているか解りません。
「その通りです」
はてなキーワードで辿ればそりゃ一発でしょう。
「自分の授業に出てる学生だったらそりゃねえ」
●泳がされてたし。
「同じ授業の女の子も読んでたって。つーか言っときますけど、これ別に誰に読まれても困る内容じゃないからね。2005年頃にやってたやつならまだしも。別に読まれてたから最悪だとか1ナノシーベルトも思ってないから、まじで」
●そんなんだったらやるなよって話だから本当。
「先生、今後も読んでくださいね〜」
●授業のまとめ上げないと読んでくれないんじゃないの?
「まじか。じゃあ後期は『グローバル化社会学』に潜って、毎月『Life』の感想を2万字……」
●で、同語反復っぽいタイトルだが。やっぱり突然「ブログ読んでます」とか「ツイッター見てます」って言われた時のあの何とも言えなさと、我々は一体いつまで付き合っていかなければならないのだろうか。全然いいんだけどさ。
「もうだいぶ無くなってきてはいるけどね。とは言ってもね。って話だよね」
●誰もが「いや、あれは……」って言い訳がましくなるじゃん。
「俺はもうかなり無いけどね。とは言ってもね。って話だよね」
ナンシー関だったら「この妙な恥ずかしさが無くならない限り、ソーシャル化は日本人の見果てぬ夢である」とか言いそうな。
「その恥ずかしさってどれぐらいのグラデーションなんだろうか。mixiボイスとツイッターmixi日記とアメブロのどこにキャズムが存在するのか」
●その4つでいくとどこにも無い気がする。
「『アメブロ見たけど風邪大丈夫?』という会話がなされている?」
●でしょう。
「本当にここ半年ぐらいの実感なんだけど、mixiツイッター或いはフェイスブック的なものの垣根が無くなっている気がするのだが」
●ギャル仕様のスマートフォンもいっぱい出てるし。
スマートフォンの普及は『下流』とかああいう概念を根こそぎ駆逐するのではないか」
●じゃあソーシャル化ってものを今後日本人は急速に体得していくのか。
「それは言いすぎだ。こんなことをダラダラ喋っていては先生に怒られるのでまとめるが、正月の朝生の東Vs.細野を引くまでもなく、ウェブというのは我々にとって紛れもない『現実の社会』であるわけで、二極分化が無効になればソーシャル化が実現されるのかと言えばそれは全く違う。ソーシャル化とはキュレーションに並ぶ謎の言葉である。ソーシャル化が何か解らないのにその実現は不可能である」
●……。
「ソーシャル化というのは端的に言えば、旧来『現実世界』と呼ばれていたものが、旧来『ネット社会』と呼ばれていたものの論理で再編成される社会のことを指すのだろう。だから二つの垣根が払われることがイコール・ソーシャル化では全くない。その意味において我々はまだソーシャル化を果たしてはいない」
●インターネットの論理って?
「お前は春学期の『インターネットの社会学』を受けていなかったのか!?」
●……。
「2009年の講義の頭何回かはニコ動に上がってるよ。俺その時受けてて、『チャーリーが切れる』のタグの回も出席してたぞ」
●…………。
「インターネットの論理に『並列化』というものがある。……古い話ではあるが、インターネットは距離と時間を無効化する。これはきわめて反ハリウッド的な論理なわけだが、例えば『ソーシャル・ネットワーク』なんかを観ると確かにこれは徹底的に遅延された物語であると感じる。あれは、表層しか存在しないPCのウィンドウ(全っっっっ然関係ない話で申し訳ないが、宇多田ヒカルの"Automatic"には『Computer Screen』という、恐らく今では存在しない単語が出てくる)の前で、登場人物の関係も(『フラット化』ではなく)『並列化』していく、という論理が作中ずっと貫かれていて(そもそも映画は、示談からのフラッシュバックとしてほぼ全編描かれている)、何も解決されないまま、個々人の世界と関係性が最後まで交わらずに終わるという、前代未聞と言っていい映画だ。インターネットの論理とは『マトリックス』のことではない。『語り』の構造が、人物を統一的全体に纏め上げることのない論理のことだ」
ゴダール
ゴダールとは少し違う。ゴダールについて述べるには卒業論文以上のものが必要だ。だから『ソーシャル・ネットワーク』を『ザッカーバーグの孤独』とかいった論調で語るのは愚の骨頂なのだ。フィンチャーが今作で得た『語り』の構造とはそんなやわなものではないのだ」
●そこから帰納されるものが「ソーシャル化」ってこと?
「わかりません」
●…………。
「でも『ソーシャル・ネットワーク』に『共感した』って人、いっぱいいるでしょ? そういうことなんじゃないかと思うんだよ。それは別に従来のナードとかギークに限らず。あれほど共同体内部で何も起こっていないのに、それが機能不全を起こしている作品はないよ」
●ところでインタミ飲みはどうだったんですか?
「楽しかった」
●非社交のくせに酒飲むと調子こくからな。
「『色々手遅れ感が』って言われたよ」
●その通りだ。
「あと『“哀愁でいと”の元ネタはディスコの名曲"New York City Night"だ』って喋ってた記憶もある。何だあれ」
●取り敢えず7月の授業のまとめを上げようか。
「はい」
●そしてもう二度とこの形式での記事は上げられなかった…………!!

鈴木謙介「『消費社会論』から見る社会学」 第十一回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第五章 脱物質主義の消費文化(2)

1)エコ消費

  • ビニール袋からエコバッグへ
    • エコ商品の流通は近代的消費における付加価値化へ戻る

2)電子書籍

  • 「紙でもらうゲラがまじ邪魔、ムダ。データで送ってほしい」(鈴木)
  • 再販制度により、出版社の収益は発行から3か月後。自転車操業状態
  • 電子書籍化のメリット
    • オンライン販売による直接の収益確保
    • 製本費の削減
    • 版切れ、品切れの回避
  • 電子書籍化のデメリット
    • 著者の直販による出版社の淘汰(オーソリティの問題は残るが)
    • 組版、装丁の絶滅
    • マーケット未開拓(村上龍『歌うクジラ』の売り上げが「とても言えない」状態)

3)途上国の搾取

  • カカオ生産国のモノカルチャーの現状(カカオの消費をやめることが途上国を救うことにならない)
  • 途上国への産業振興(内需喚起)、農業の技術革新(「緑の革命」)
  • フェアトレードなど、先進国の消費スタイルの変化によって労働環境を規定する

4)家電の機能過剰

  • 新製品の発表によって「のみ」、消費者の購買欲求が生まれる
  • 家電機能のスマート化(OSのアップデートを長期間隔化、ソフトをアプリケーションでカスタマイズ)

5)脱物質主義におけるビジネスモデルの設計

  • 自然破壊、途上国搾取への単なる批判は効力を持たない。買う側、作る側の倫理以外に、ビジネスモデルを明確にする必要がある
  • エコ消費のブランド化
  • 付加価値性の脱物質化
    • 「モノ」の機能面における差異化

先進国に生きる私たちが、天然資源を犠牲にしてしか近代的消費を継続できないとすれば、そうした消費活動は、外在的環境の有限性によって規定されざるを得ない。また一方では、近代における環境問題はそれ自身の進行が招いたものであるとの認識から、近代化の徹底による環境危機の克服=エコロジーの合理化も主張されている。いずれにせよこの両者が示唆するのは、前期近代的な消費活動とは別の可能性、すなわち消費の削減を通じて豊かさを実現していくことで、新たな消費の概念を実現可能、そして持続可能なものとしていく考えである(福士正博「持続可能な消費――二つのバージョン(1)」、東京経大学会誌269号)。
日本ではほとんど混同されているスローライフロハスについて、私が最も強く感じる場は夏の野外フェスティヴァルである。例えばその代表的なものであるフジ・ロック・フェスティヴァルは、60年代にコクドが切り開いた苗場スキー場という場で、堂々と自然環境の保護を謳っている。会場内は厳格なゴミの分別やグリーン・エネルギーによる自家発電も行われているが、一方で多くの観客が自家用車で訪れ、終了後キャンプサイトから立ち去る際には寝袋やテントまでを含めたあらゆるゴミを、主催者側の黙認の下に放置する姿が散見される。また、「自然の中で限られたインフラの中暮らす」と言いながら、皆がゴアテックスやメレルのアウトドアグッズに高額を支払って臨む。私自身はこのフェスティヴァルに毎年参加しているが、「不便さによる豊かさ」の実現こそ最大限に体感するものの、そうした経験はあくまで近代的消費の内側に包摂されるものであり、持続可能性については大いに疑問である。毎日がフジ・ロックだったらそれは絶対に耐えられない。
「非日常」という言葉は原理として「日常」の存在を前提としており、マーケティング用語としてのロハスが仮にフジ・ロック的なものと同義であるとすれば、現在の市場においてそれが近代的消費を内側から食い破ることになるとは考えにくい。野外フェスティヴァル、ロハスは現在、紛れもない近代的産業の一部である。「消費の削減」とは、それが内側に胚胎される「近代」という物語の、外側において実現されねばならないが、それは「ポスト・モダン」であるのか、あるいは「後期近代」であるのか。

『アンストッパブル』(トニー・スコット、2010)

作業員の慢心によるミスから動き出した無人の貨物車両は慣性によってその速度を上げ、自らが発する力のみを頼りに毎時60マイルで走り続ける。その身を閃光に曝し、焦がれることで存在を現すには、いささか鈍重な身体を携えてはいるが、列車が列車自身の力のみによって動かなければならない理由は、フィルムがスクリーンに映写されねばならない理由と寸分も違うところがない。ただ一か所だけインサートされる、鉄道会社幹部のゴルフのカットにこそ驚きを禁じ得ないものの、トニー・スコットのクロノスは、映画における説話論的構造に積極的にその身を投げ出すものだ。無人のプールへダイヴする快楽については、言うまでもない。

鈴木謙介 「『消費社会論』から見る社会学」 第十回

間々田孝夫『第三の消費文化論――モダンでもポストモダンでもなく』(2007、ミネルヴァ書房
第五章 脱物質主義の消費文化(1)

1)物質主義

  • 産業革命、工業化による大量生産技術が商品あたりのコストを下げ、大衆の「モノ」の消費が実現
  • 1960年代後半
  • 1970年代
    • 高度成長の終焉、天然資源の限界
    • 共同体主義の出現⇒脱物質主義へ

2)脱物質主義

  • 歴史的、経済的、社会的な変動を背景に持ち、ポストモダン消費論とは別の文脈に存在していた(ポストモダン消費に脱物質主義を対置する間々田への批判)
  • 脱物質主義における問題
    • 「モノ」はどこまで必要か
    • 個人の価値観は「モノ」から独立してどう規定されるか
    • 経済的側面からは制限を受けないか

fragment 4

NHK爆笑問題のニッポンの教養』、上野千鶴子の回は全く面白くなかった。こうした期待は(つーかそもそも「民放の上野千鶴子」に何を期待していたのかもよく解らんが)往々にして裏切られるのが常ではあるが(朝生の「若者不幸論」など)、上野千鶴子爆笑問題の食い合わせは、基本的に養老猛司と速水健朗、いや、梅田望夫光浦靖子、んーーー、長島一茂と加藤夏希みたいなもんと考えてよかろう。

上野千鶴子が一茂だったら大変だがそういうわけではなく、要するに後半からぶち切れの太田光は上野の発言の上げ足取り→ふと気付いた矛盾点を突く(上野「生身の女性との密な交流が一番重要」太田「そういうジェンダーとか何とかが一番それを阻んでるじゃねえか!」)という、まあ前提を共有できていない議論に参加したことのある者(皆さん)であれば誰もがはいはい。となるあの展開なわけだが(ちなみにツイッター上での反応は、何と太田と上野双方の支持者が半々!と、まあ誰もがはいはい。となる――)、太田の発言が所謂「社会学への批判」のステレオタイプ(それはまた最も本質的な問いでもあるわけだが)をはみ出ないことは、冒頭の上野「男は男社会の内部での承認を求める」論(このことは近著でも再三述べられている)への忠実な賛同と相似をなすようでもある。

んで、これは結局人文科学と社会科学の対立なのではないか、とか大きく出てみたい気もするのだが、もっと単純に議論とケンカの差異という気がするのだ。遥洋子が東大で上野に習ったケンカ(番組の表題にも掲げられていた)というのは、やはり決められたルールの内側で履行されるものであり、ケンカというのは本質的に無頼であって、例えばその果てに人が死ぬようなもののことだと思うのだ。それは相手を殺めることと同時に自分が命を落とすことをも意味するのであって、太田光の議論のあり方は明らかに自死である(いつもは中立を保つ田中の議論への参入も、また)。上野は「議論に勝つ最善の方法は相手の論理の矛盾点を突くこと『のみ』」とかつて語っていたが、ケンカの論理(そもそもそんなものは存在しない)を携えた、相手への共感を全く持ち得ない太田の前に、例えば社会学の臨界点が露呈してしまった、というのでは、何よりもまずワタシの矛盾点を突かれてしまうわけで。

放送終了後、彼女はワタシに「女性であることのメリットとデメリットを受け入れて私は社会生活を送っている。女性としての快楽を100%享受している女の子たちにフェミニズムは必要なのか」と問うた。ワタシに聞かれても困るわけだが、「社会学役に立たないんじゃね?」批判の最もオーディナリーな声が最も有効であるという事実は、永遠に上野と太田の対立を量産し続ける。